broom’s posterous

日本の銀行にも、時価会計導入猶予が必要なのか?

地銀や主要行が、日本の金融機関は「特異な状況」にあるので、時価会計の導入猶予が必要だと主張しているらしい。

他方で、地銀等には、公的資金の導入スキームが復活しようとしている。

つまり、どれだけ資本不足なのか、正確には分からないようにした上で、税金を投入しようというのだろうか?

日本の金融機関が、本当にそこまで今回の危機で窮迫しているのか、単なる集団的な経営判断ミスではないのか、きちんと確認した方が良いのではないか?

 

#本日の英語の運動: All-in-One13セット目終わり。今晩から、タイピングを追加して2セットやってみる。

#87文型は4セット目終わり。今晩からは、量を増やして2セットやってみる。

#ExEは3セット目が終わったので、今晩は、できなかった問題を抽出してさらった上で、Part2に進んでみる。

 

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Appleは自分のスタンスを変えないらしい

ノートブックの新製品が噂されていたAppleのイベントでは、既存製品の堅実な改善と値引きが発表されただけだった。ディスプレイもその一環といえそう。

或る意味、Appleは、今の路線に十分な手応えを得ているので、特段の新たな手を必要としていないのかもしれない。ここ数年、製品のラインナップも本当に絞り込んだままだ。

そもそもウルトラモバイルなパソコンというマーケットに懐疑的なのかもしれない。iPhoneやiPodが、Appleのウルトラモバイルに対する回答なのだろう。

自分としては、直前のラインのMacBook黒を使い始めてまだ半年なので、しばらく買い換える予定はない。2~3年して、Airがもう少し安定して使えるようになってくれたら、今回出たLEDのディスプレイと一緒に買い換えようかと思う。

昔のDuoDockにはちょっと抵抗があったけれど、今回のLEDディスプレイとMacBookの接続は壊れる心配もなさそうだから、歓迎。既存ラインのMacBookでも、このディスプレイを使えるアクセサリーを、どこかで出してくれないだろうか?

 

#本日の英語の運動: All-in-One13セット3ゲーム目終わり。今晩13セットを終わらせたら、明日からはタイピングを追加して2セットやってみる。

#87文型は4セット目の第3ゲームが終わり。今晩4セット目を終わらせたら、明日からは量を増やして2セットやってみる。ExEは3セット目の第6ゲームをやった。今晩もやる。

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世界は動いた、日本は動けるのか?

日本が催促した甲斐もあってか、EUや米が急遽取りまとめた施策は、規模も十分で、カウンターパーティー・リスクにも目配せするなど、ポイントもきちんと押さえている様子。具体的な資本注入もまとまりそうだ。

欧米で公的資金の注入等が進めば、当面は株価はさらに回復していくはず。ドルのLIBORレートをみると、13日はオーバーナイトが大きく下がったけれど、3ヶ月はそのままだ。世界は、金融危機に対して、本気で迅速に動いたと思う。まだ危機全体の初期だとしても、十分な初動だった。

そして、日本にとっては、自らには大きな金融危機がなく、欧米への対策催促は終わったとしても、自らの問題が一緒に解決してくれた訳ではない。

ポイントの1つは、野村や三菱UFJが、今回の買収や出資から、早い段階で利益を生み出せるのかどうかだろう。今回の欧米金融機関の問題を既に消化済みらしい日本の金融業界の現在の実力が、見えてくるはずだ。

 

#本日の英語の運動: All-in-One13セット目も昨日で2ゲーム目終了。87文型は4セット目に入って2ゲーム目終わり。ExEは3セット目で4ゲーム目を昨日やった。今晩もやる。

#PodcastはCNN、NYT、NewsPodの他に、Bloombergを3つ聴いた。Dixit、Schelling、Krugmanへのインタビュー。Krugmanの英語は聞きやすかったけれど、Dixitのは少し苦労した。話としてはDixitとSchellingが互いに相手について話していたのが、おもしろかった。今晩もやるぞ。

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「外需のファンダメンタルズ」より、「自分のファンダメンタルズ」で乗り切ろう

アメリカ株高を支えにしていたはずの生保がついに飛んだ。他の生保も、飛ぶことはないにしても、株式運用については相当傷んだはず。不良債権処理を先送りしていた地方金融機関には、早々と公的資金注入の話が出始めている。

2003年(年初8,669.89、最安値が7,603.76)からの外需・外国株頼みの上昇部分が剥がれた感じか?

『ファンダメンタルズゆえに日本は大丈夫』と繰り返す人もいるけれど、アメリカ経済の好況が、ここ数年の日本のファンダメンタルズの相当部分だったのではないか?中国やインドとは、明らかに状況が異なる。

アメリカ社会は高齢化の状態にはなく、年に約100万世帯増加するらしいから、80万戸くらいの住宅過剰在庫は1~2年で調整可能なはず。アメリカの潜在成長率が3.4%(OECD推計)あることもあり、相変わらずアメリカ頼みを続けるとすれば、それまで待つしかないのかもしれない。

なるほど日本も60万以上、世帯は増加しているけれど、人口は減少、所得は低迷、財政も危機的、構造改革も元に戻りそうで、1.3%(同)の潜在成長率がかつての4%に戻るのは当分難しそうだから、(少なくともそれまでは)「日本のファンダメンタルズ」より「自分のファンダメンタルズ」で乗り切る必要がありそうだ。



#本日の英語の運動: All-in-One12セット目第2ゲーム終わり。87文型、ExEも第3セットの2ゲーム目終わり。今晩もやる。

#Podcastは、BWを除いて一通り全部聴いた。CNN辺りはいくぶん悲壮な調子が漂っていた。

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最善の理系教育改善は、頭脳流出の推進か?

早くから渡米して、アメリカの環境で研究成果を挙げてきた南部さんや下村さんの受賞について、『日本人の成果』と位置づける報道が多い。

それならば、「日本人」への理系教育水準を改善する、現時点で最善の方策は、アメリカに早くから留学・滞在してもらって(必要ならば国籍も代えて)研究してもらうこと、ってことにならないだろうか?

「日本人の」なんて言わずに、日本が世界に提供できる科学教育の質や環境を改善すべきなのでは?日本で研究したアメリカ人が、ノーベル賞を受賞する日が来ることを目指して。

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なぜ、指導者に常人以上を求めるのか? 常人にも間違いなくできる仕組みが必要なのでは?

『グリーンスパン前FRB議長はあの時金利を上げるべきだった』といった議論がかなり聞こえるけれど、そんな常人離れした人間を、いつもFRB議長として確保できる訳ではないだろう(それとも、アメリカならできるのか?)。

確かに、『自分達とは比較にならない高い給料をもらっているのだから、それくらい当たり前』という批判はありうるかもしれないが、その人間の危機管理能力に沿って、常にその収入が決定されている訳ではなく、常人離れした収入を提示したからといって、それに見合った超人的な人間が確保できる訳でもないことは、リーマンやAIG経営陣の例からも十分明らかになったはず。

それならば、より確実なリスク管理は、指導者に過大な期待をせずに、フェールセーフの視点から危機管理態勢を構築しておくことだろう。『あいつに任せておけば大丈夫』というのが結構危ないということを、今回の危機から学習すべきだ。

より長期的には、指導者の能力改善に努めることは必要だろうし、指導者の責任を不問にするつもりも、官僚内閣制を賞賛するつもりもない。

ただ、指導者の能力に問題を帰着させずに、システムの機能不全をチェックした方が、次のアクションも見えやすく、現実的なのではないだろうか。自戒も込めて。

 

#本日の英語の運動: All-in-One12セット目始めた。今回は進める順番を逆にしてみた。これだけでもそれなりに新鮮。

#ExE3セット目始めた。87文型はできていない。今晩はPodcastとかAll-in-OneのCDもやってみる。

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早く公的資金を投入しろ、というけれど

日本の存在感を示す好機? 「悪目立ち」も存在感というのなら、そうかもしれない。

『まだ早い。あなたのところのように、何年も経ってからにしないと政治的に持たない(選挙に勝てない)よ』と、米下院議員あたりに返されたら、なんて答えるつもりだろう?

『日本は他国に迷惑をかけなかった』というけれど、自国の内需に他国をも呼び込む経済大国らしい経済構造にならずに、他国に牽引してもらう構造に徹してきたからではないか?『いつもと同じようにうちのを買ってもらわないと、迷惑なんだよ』なんて胸を張って言ったら、お客に逃げられるだけだろう。

政治の迷惑を避けて自らの仕事を続けている日本人達はノーベル賞を獲ったりしているけれど、政治関連業界は、その1人がいうように「無思考状態」なのかもしれない。そんなに考えなくて大丈夫なのかな?

経済学だけでなく、優れた経済政策にもノーベル賞を設定してはどうか?励みになるかもしれない。イグ・ノーベル賞だと、すぐに獲れそうだから励みにはならないだろう。

追記:なにやら、当時ゆっくりと不良債権処理をしていたはずの人達が、週末のG7で「日本の不良債権処理の経験」をアピールしろと言っているらしい。

そういう発言で具体的に何が得られるか、良く分からないけれど、黙っているよりは良いかもしれない。アメリカとしてはドル資金支援が欲しい局面だから、礼儀正しく対応してもらえることを祈りたい。

 

#本日の英語の運動: All-in-One11セット目終わり。ただ、水村氏関連エントリーの作成があって、他の運動はできなかった。今晩は全部やるぞ。

#備忘:一昨日から少しずつ飲んでみた、豪Logan社のWeemala、美味しかった。

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水村美苗『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』 3: 3章を読み終えて

昨日は、自分のバックグラウンドに係る部分まで長々と書いてしまったので、今日は短めにしたい。

<発表部分を読み終えての一応の結論>

結局、この文章の現在発表されている部分は、一種の「ファンタジー」だと思う。水村氏或いは「語り手」(以下、「語り手」)に言いたいことがあるのは理解できたし、そのために様々な事例が引かれていたりするけれど、文中で行われている、それぞれの事例の検討や自分の主張への敷衍などを検討した限り、これは「ファンタジー」として捉えた方が良いと思う。

もちろん、「ファンタジー」だから悪いということは特にない。自分の経験でも、いくつかの「ファンタジー」には、十分に人に訴えるものがあった。

だから、この評論(?)が「ファンタジー」であっても、自分にとっては畢竟かまわない。『これからは、日本でも、英語でものを書く人が増えるんじゃないかな?日本語で書くのって、ダサくなっちゃうかもね。』といったこの発表部分の主旨については、私自身も「そうかもしれない」と思っている。

ただ、仮に『過去のラテン語やアラビア語のように、英語が普遍語として復活して、国語を使う私達を支配・抑圧しようとしている』といったことまで主張したいのだとすれば、それを論理的に納得させるほどの説得力は、残念ながらない。

「語り手」はそうした説得力など求めていないのかもしれないけれど、それならば、もっとコンパクトで詩的なファンタジーにした方が、逆に「語り手」の考えとか趣旨はうまく伝わったのではないか。たとえば、ミシェル・トゥルニェの寓話のようなスタイルの方が向いていたと思う。

<若干の検討経緯>

上記のような結論に到った経緯について、備忘のために若干書いておく。

まず、文中の主要なプレイヤーである「国語」等の定義。「国語」が<国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉>と定義されているが、「国民」「国民国家」が定義されていないので、定義として中途半端。

その結果、『翻訳』や『二重言語者』が不当に扱われてきたとの主張があるのに、「誰が」「どういう理由で」不当に扱ってきたのかが、判然としないままになっている。ここを判然とさせれば、『<国民文学>としての小説が栄えたのは歴史の一つの時代である』(P.207)と主張される理由が、もっと明確になったはず。

「語り手」は、面倒なのか、「重たく」なるのを避けたいのか、(そうした基礎が必要となる論旨を展開しながら)ナショナリズムとか国民国家の形成といった「重たい」話を避けている。しかし、これらの基礎を避けてしまうと、肝心の『英語という1つの普遍語が現れた』ことの歴史的な特異性を、うまく説明できなくなると思う。

たとえば文中には、『イギリス、そしてアメリカが突出した国力をもつようになると、世界勢力の均衡が目に見えて崩れはじめる。~政治的軍事的経済的に英語圏の勢力が一人勝ちしたことが明らかになるにつれ、英語という<国語>が一人勝ちしたのも明らかになっていく。』(P.202)といった説明がある。

けれど、国民国家とかナショナリズム、それらの推移といった「足場」がないせいもあってか、たとえば「なぜ国の勝敗にそって国語の勝敗の趨勢が決まるのか」が「語り手」の定義では不明であるなど、説明としては綻びが見える気がする。

まあ、確かに、ありふれてしまった「ナショナリズム」「グローバリゼーション」論を、「国語」「普遍語」という言葉の側面で展開しようとしているところに、本評論(?)のおもしろさがあるのかもしれないけれど、評論であるのなら、論旨の破綻はまずいと思う。

次に、陰の主要登場人物であるベネディクト・アンダーソンの扱い。

少なくとも今回の発表部分を読んだ限りでは、「語り手」は、アンダーソンの著作からかなりの示唆や影響を受けているし、部分的には、立論の支えにもしているけれど、アンダーソンの議論との差別化は図りたいようだ。

その上で、「語り手」は、どうやら、本評論(?)の1つの柱(差別化の一環)として、『英語が唯一の<普遍語>となったのに、英語を母語とする人間には、その現状が把握できない』という命題を必要としているように伺える。

つまり、『過去に葬ったと思っていた~二重構造が再びむくむくと頭をもたげてきている。今回は、英語というたった一つの<普遍語>が、言語の二重構造を世界全体に強いようとしている。』(P.209)としているように、「語り手」にとっては、「普遍語」は現代にも現れるものでなければならない。

まず、『想像の共同体』の中で、アンダーソンは、中国語、ラテン語といった「聖なる言葉」が、改宗という経路によって外に開かれていたことを、イギリス人が法王になったり、満州人が皇帝になった例を挙げて、同書のかなり冒頭で指摘している(日本語訳旧版のP.31)。

こ れは、概念の建て方こそ違え、「語り手」のいう「普遍語」だろう。

「語り手」もP.188下段でそれを認めているけれど、『~それは、かれにとって、中心的なことではな い。』とした上で、アンダーソンの普遍語のとらえ方は閉鎖的、自分のとらえ方は開放的、といった説明をしている(P.189上段)。

これはかなり無理がある説明だ。アンダーソンは、「語り手」のように『普遍語の復活』を必要とはしていないから、「普遍語」の位置づけ、或いは概念自体が、当然、「語り手」とは違ってくるはず。それは論の建て方の違いであって、アンダーソンが「普遍語」を閉鎖的に捉えていたことにはならない。少なくとも『想像の共同体』をみる限り、アンダーソンは、「普遍語」とその開放性を認識していたと考えた方が自然ではないか。

ここで、『想像の共同体』におけるアンダーソンの議論を、極めて雑に、「国民国家の形成という要請は、潜在的に国語という存在を必要としたが、印刷手段・印刷物の輸送手段の急速な普及によって成立した国語は、やがて国民国家を支える重要な要素にもなった」と要約してみる。つまり、アンダーソンの議論では、聖なる言語、「普遍語」は、現代に復活しない。或いは、現代に復活することは想定されていない。

この時、たとえば、「国境を無意味化する技術が実現→デファクトの共通語としての英語 が浮上」という、現状のありふれた説明は、「国民国家という枠組みの無力化」「それに伴う国語の事実上の消滅、共通語の出現」という『アンダーソン後』の議論と解釈できて、過去と同様の「普遍語」が復活する訳ではないから、アンダーソンの議論と必ずしも矛盾はしない。

ところが、「語り手」の議論では「普遍語」が復活する必要があり、これはアンダーソンの議論とはそもそも整合しない。かつ、この点がこの文章の他にない「売り」なのだとしたら、「語り手」は自ら議論を組み立てる必要があるはずだ。

ところが「語り手」は、このアンダーソンの議論との不整合を、全て『アンダーソンは英語を母語とする人で、多言語主義者で、アイルランド人だから、<普遍語>という現実が見えなかったのだ』と、アンダーソン側に問題があると説明しているように見える。「普遍語の復活」は当然のことなのに、アンダーソンが分かっていないだけ、という訳だ。実際どうなのだろう。

「語り手」が引いている『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』のP.96~100を読んでみると、アンダーソンは、各国語を使う人々が相手の国語をも使って(電信や輸送手段を通じて)連絡し始めた『初期グローバル化』という時代を、実態調査を踏まえて捉えようとしていて、そこに現れる人々について、「かれらは、他の言語集団に属する人々と感情的なつながりを得るためにこそ、言語を習得し、その精神世界に入り込むことを望んだのです」と述べている。

この『初期グローバル化』というアンダーソンの捉え方にはかなりの説得力があって、上記のような、彼の『想像の共同体』での議論をうまく修正・補強しそうに、私には思える。たとえ、『初期グローバル化』が、現時点の社会までは説明できないとしても、その事は、この議論の妥当性を損なうものではないはず。アンダーソンは、自らの議論の弱点を、自分なりに補強しようとしていた。

それなのに、「語り手」は、このアンダーソンの議論を正面からは検討せずに、『~もう自分の子供たちは英語の「え」の字も知らなくともよい、それよりもぜひほかの言葉を学ばせようなどという気になる人が、いったいどれぐらいいるだろうか。』と難癖をつけるだけで済ませて、「多言語主義だから」「アイルランドは贅沢な公用語政策を採用しているから」といった理由で、『<普遍語>にかんしての思考の欠落』という烙印を押して、当の『普遍語の復活』については、どう読んでも自らの手による十分な理由付けをしていない。

「語り手」のアンダーソンに対する不満は、つまりは、彼の議論のままでは「語り手」が必要とする『普遍語の復活』が説明できないからだろうけれど、それは無い物ねだりでしかない。なぜ、自分の立論上必要な点として、正面から構築とか説明とかしていないのか、ちょっと謎だ。

後は、細かい点。

『~かれらがラテン語の散文で書くようになったのは、紀元前三世紀に活躍した大カトーからだと言われている。しかも、ラテン語の<書き言葉>はギリシャ語の<書き言葉>を翻訳する行為から生まれたものであり、~』(P.191)

通説では、古ラテン語は前1世紀までを指していて、この頃までは、ギリシャ語に合わせるために後に導入された「Y」「Z」は、ラテン語にはなかった。古ラテン語については、古い碑文もかなり見つかっており、エトルリア語等の影響を受けているそうだ。「Y」「Z」がアルファベットに入るのは、前1世紀からの古典ラテン語から、と言われている。

『ラテン語が<普遍語>として大活躍し始めるのは、カトリック教会の力が弱まり、度重なる聖戦を通じて、イスラム文化圏で一千年以上保持されていたギリシャ哲学-キリスト教圏では途中から禁じられるようになったギリシャ哲学に、ヨーロッパの人々がふたたび触れるようになったころからである。』(P.194)

これは、いつの時代を指しているのだろう?たぶん、十字軍によってアラビア語の文献がもたらされ、そのラテン語への翻訳によって、アリストテレスの哲学・自然学が、キリスト教会にも積極的に受け入れられて、アクィナスによるスコラ哲学の形成へとつながった、いわゆる「12世紀ルネサンス」を指しているのではないか。

それが、どうして、16〜17世紀のコペルニクス、ガリレオ、ケプラーなのか。

また、『かれらはみなラテン語で書いた。』(同)としているが、少なくともガリレオは、「語り手」が触れている『新科学対話』も含め、主著をイタリア語で書いている。同様にラテン語で書いた例として、ホッブス、スピノザ、ライプニッツを「語り手」は挙げているが、ホッブスの『リバイアサン』は英語、ライプニッツの『単子論』はフランス語で書かれた。

逆に、啓蒙時代について、「語り手」は「<国語>で花ひらいた学問」(P.198)としている。そりゃ趨勢はそうかもしれないけれど、その時代にラテン語で書いていた、ガウス、ヤーコビ、ニュートンという主要な科学者・数学者の存在には、なぜか触れていない。

最後に、もう1つ。「語り手」の定義では、『二重言語者』と『単一言語者』が相補的に位置づけられているが、ともに、最低限、母語を「読める」ことになっている。

では、近代以前、おそらく人類の大半を占めていたはずの『母語を読めなかった人達』は、「語り手」の立論の中ではどう位置付けされているのか、発表分を読んだ限りでは明示されていないと思う(アンダーソンならば、国民を必要とした国家が国語教育を展開、といった説明が可能)。そうした人々は、眼中にないということだろうか?

本論(?)では、より高い叡智を求める人間ばかりが強調されているけれど、大多数の人間の実際の社会行動を射程に入れないままでは、「評論」としてどうなんだろうか?

<気になる点>

やがて出版される全体の中で、今回の発表部分は、どういう位置づけになるのだろう?

たとえば、この部分は、『本格小説』の冒頭のように他の部分とはかなり違った役割を担っていて、上記のような穴の多い立論や検討にも、ちゃんとオチが付いていたりするのだろうか?出版が楽しみだ。

 

とりあえず、以上。

 

#本日の英語の運動: All-in-One11セット目第3ゲームやった。ExEも2セット目終わった。今晩もやるぞ。

#87文型は、上記の水村氏の評論(?)を読んだのでできなかった。今晩はやる。

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水村美苗『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』 2: 2章を読み終えて

週末、標記の評論(?)を読み続けてみた。ついでに、『想像の共同体』を読み直し、関連するかなと思って、手元にあった、ホブズボウムの『ナショナリズムの歴史と現在』などを拾い読みし始めた。こういう文章を読むと、関連する本を再読したり、積読になっていた本を読み始める機会になってくれるのが、ありがたい。

<現時点での自分なりの結論>

まず、現時点での自分なりの結論めいた考えを書いてみる。日本語でものを書くことはたぶん亡びないだろうけれど、小説は売れなくなるかもしれない。小説は近代の産物であり、その役割の一部をもう終えていると思う。

たとえば、かつては小説を通じて知ることができた風物とか地理とかは、今はネットからもっと直接的に知ることができる。

その結果、日本の近代文学のように、『外から取り入れたものを国内に伝播する』といった意思を持った小説は、もう書かれないかもしれない。そうした意思を、わざわざ小説を通じて実現する必然性が乏しくなってきたはずだから。

それに、小説を通じた主張は、いずれ「claim」でしかない。きっちりとした論拠や実験やデータや論証が伴っている訳ではないので、世の中に対して、共感は得られても説得にはつながらない場合が少なくないと思う。標記の水村氏の評論(?)も、自分としては、現状、そうしたものの1つと位置づけざるを得ない。

つまり、書き手にとっては、どうでも良いことなのかもしれないけれど、この文章って、(「新潮」の表紙に記載されているように)「評論」なのかな、という点が、ここまで読んでも良く分からない。正直、私小説の一種として読んだ方が良いようにも思える。

<国語とか言語についての自分の経験>

続いて、小説とは離れた実務の現場での、自分の経験を、いくつか書いてみたい。

自分は、99年1月~6月、ルクセンブルグにある、EUの統計機関に研修生として滞在していた。

ルクセンブルグにはルクセンブルグ語という国語があり、公用語の1つとされているけれど、小学校1年からフランス語、2年からドイツ語が教えられている。町中で小さい子が親にフランス語で駄々をこねているのを見かけたりした。スーパーで売っている即席スープの説明はドイツ語ばかりだ。

この国は、自国の規模にそぐわないとして、大学を国内に設置していない。周辺国の大学で学んだ青年達は、帰国して金融機関に勤めたり、SkypeのようなIT企業を始めたりして、1人当たりGDP世界1位の豊かな経済を維持・発展させている。

キオスクや本屋に行っても、並んでいるのは、フランス語、ドイツ語、英語の書籍、新聞、雑誌ばかりで、ルクセンブルグ語による本はほんの少し並んでいるだけだ。ルクセンブルグ語の辞書は、(大学がないので)高校の先生達が学生と一緒に編纂している。地名も、ドイツ語、フランス語のものが多いけれど、ところどころにルクセンブルグ語が残っている。

ルクセンブルグ自体は、ハプスブルグと同じくらい古い王家だけれど、スペイン、フランス、ドイツに攻撃・占領される歴史を経てきた。世の中には、元気に暮らしているけれど、言語という点では、現にこうなっている国がある。それを目の当たりにした。いわば彼らは、思い切って「EUという統合体の中での元気な一地域」になろうとしているようだ。

もう1つの経験は、つい先日まで携わっていた経済連携協定の交渉だ。

経済連携協定のような二国間協定では、協定正文は、それぞれの国語・公用語とする場合もあるけれど、(両締約国の公用語になっていない)英語を含めたり、英語だけにする場合もある。なぜかといえば、共通語の正文を持っておいた方が、解釈でもめた際に解決がしやすいからだ。解釈用の正文として英語を採用している場合もある。

協定交渉自体も、共通語である英語で進められる。英語のような共通語がなかったら、こうした交渉を進めたり、協定本文をまとめるのは、もっと時間を要する仕事になっただろうし、相手国も限られた範囲に留まっていただろう。(基本的に世界中と)英語で交渉できるありがたさを感じざるを得ない。

こうした共通語がなければ、二国間はおろか多国間交渉はもっと進まない。英語を母語としない各国が、自国の権益を守るためにも、共通語を使うことが必須になっている。そういう実情だと思う。

たとえば韓米FTAを子細に検討すると、交渉も協定正文も英語だけれど、決して米国が一方的に勝っている内容ではない。WTO協議は英語を主要言語として行われているけれど、アメリカの主張・思惑通りには全く進んでいない。使う言語が即ちその母国による支配につながっているとは思えない。少なくとも実務の場では、言語はそんなに至上の位置にはない。

<2章まで読んで考えたこと>

以下、いくつか自分の考えたことを書いてみる。

小説は、バルザックの頃から、ジャーナリズムの一形態だったと思う。ジャーナリズムのツールとして、その時々、効果的な言語を使うことが要請されるのではないか。そうした前提では、今後とも日本語を使っていける日本市場があるだけ、日本語で書く小説家は(市場の選択という点では)恵まれている気がする。

それとも、「語り手」は、そういう日本語市場が嫌なのだろうか?

プレイヤード派やダンテを「語り手」は挙げているけれど、その頃には、教会という共同体がラテン語の裏付けとなっていて、共通語と俗語の対立とは、つまり、宗教(sacred)と世俗(secular)の対立だったのではないか。同時期の音楽家も、宗教・世俗双方の作品を残している人が多い。そこには、19世紀のナショナリズムはなかったはず。「俗語」と「国語」は必ずしも同一ではない。

公式語と俗語の関係は、日本の場合にも当てはまるはず。奈良・平安の正式文書は漢文で書かれ、正式な文学も漢文だったけれど、古事記・万葉以来、俗語としての日本語による文学は併存してきた。少なくとも当時、こうした動きにも、ナショナリズムは絡んでいなかったはず。

「語り手」の議論は、近代文学における使用言語の問題に焦点を合わせているようだけれど、不思議なくらい、「ナショナリズム」「グローバリズム」「グローバリゼーション」といった、この手の議論では出てきて当然の概念が除かれていたり、誤用されていたり、或いは転倒されているような気がする。これからの発表される部分への伏線だろうか?

文学の素養の相当ある人(という設定)のようだから、各国の古代から近世の文学史を含めた歴史が、一時期、近代ナショナリズムの視点から解釈し直されたり、書き直されたりしてきたことを、「語り手」は知っているはずだ。自分達の国語があって、そのためのナショナリズムがあったと主張するとすれば、それは事実というよりねつ造された神話だろう。

国語はナショナリズムによって(のために)人工的に形成された、というのが定説だろう。ホブズボウムによれば、様々な『国語』の実例をみる限り、それはコミュニケーションの実態を無視して政治的に作り上げられたと言った方が適切らしい。

たとえば、「語り手」がパリでの会話で知る機会を得たイディシュ語は、20世紀までに相当な質・量の文学作品を生み出していたけれど、「ユダヤ民族の歴史を取り戻す」といった視点が優先されて、イスラエルの公用語には選ばれず、その後使われなくなった。

つまり、イディシュ語の場合は、普遍語によって亡ぼされたというよりは、使っていた当の人々の政治的な要請によって亡ぼされ、彼らは代わりに、はるか古代の言葉を「ヘブライ語」として人工的に復活させて使い始めた、ということらしい。

これほどに、近代の国語とは各国の政治の結果なのだから、「普遍語との競争、支配・従属」という軸だけで「語り手」が見ようとするのは不十分ではないか。それとも、この軸で見ることにも、何か伏線があるのだろうか。

日本語の場合は、古代からの中国の影響がありながら、武力占領がなかったので、日本語を取り上げられた経験がない。また江戸享保期からの古学・国学研究もあって、「国語」という概念は明治以前に知識層の間に形成されていたと思う。

加えて江戸期に広汎に使われていた「候文」「浄瑠璃本」のような共通の書き言葉があったので、とりあえずそれを使いながら、比較的スムーズに自国民が共通で使用する書き言葉としての「国語」へ移行することができたのではないだろうか。つまり、あまりに不自然な「国語」を持たされる経験もしないで済んだ。

「2つの時間を生きる」と「語り手」は言うけれど、イディシュ語の他にも、アルザス・ロレーヌのような最近の事例があったヨーロッパでは、それは比較的普通のことだったはずだ。

逆に日本は、「国語」を持った明治以降も、「国語」を取り上げられることはなかった。国際連盟では主要国になり、先の大戦では主要な交戦国の1つだったので、米軍が日本語を相当な物量を使って学んでくれ、戦後の日本文学の伝播につながる、という恵まれた立場にもあった。

以上から考えれば、日本の近代文学の作家達は、当初から、自分達にとってそれほど違和感のない国民に、それほど違和感のない国語で、作品を書き送ることができた、そして日本の政治的・経済的成功によって、主要言語という地位も得ることができた、といえそうだ。

結局、日本の場合には、自分たちの昔から使ってきた言葉を、ほぼそのまま「国語」としてナショナリズム的に捉えることが、それほど無理をし ないで達成できたのかもしれない。

このケースでは、『自分たちの言葉(=国語)を護持するべく、ナショナリズム的な動きがあった』といっても、確かに嘘にはならない。ただ、これが一般的なケースとまでは言えない気がする。

他方で、「欧米からの文化の移入」という課題が意識されていたので、日本語を使って、日本にはない文物・慣習・概念などを書く必要があった点は、ユニークかもしれない。

とすれば、「語り手」がいうような問題は「言葉の従属」というより、近代日本が欧米文化を普遍的なものと位置づけて、それを移入することを自国の文化政策の大きな一部としてきたこと、文学もその路線に沿って作成されてきた側面があること、この辺りにあるのではないか?

そして、明治期ほどには、現在の日本の文化政策は、そうした方向を向いてはいないから、文学に同様の政策的要請が為される可能性はほぼないと見ていい。つまり、日本近代文学のような位置づけの日本語文学はなくなっていくだろうし、復活しそうにもない。

かつての日本にとっての英仏独語の位置づけに比較すれば、現在、少なくとも90年代以降の英語の共通語化は、デファクトな動きだろう。とすれば、その受け止め方が違ってきたとしてもおかしくはない。

「語り手」の議論では、この段差がどこまで意識されているのかが、現時点では良く分からない。ロンサールやダンテの俗語擁護と、明治期の近代文化移入と、現在の私たちが日本語で書くこととの間に、全く共通点がないことはないだろうけれど、同じことだと言われるとかなりの違和感がある。「日本語が亡び、英語が選択されていく」という「語り手」の危機感の実体が、少なくとも私には、まだ良く理解できない。その語り口もその内容も、かなり屈折しているみたいだし。

この評論(?)を読んで、読めていなかった本を読み始めたり、普段考えていなかった事を考える機会を得ることができたのだから、その点は間違いなくありがたい。なので、もう少し、読み続けていこうと思う。

ただ、この文章自体から自分が何を得られそうかは、まだ分からない。多くの私小説がそうであるように、「何が言いたいのか」といった野暮な話は煙に巻いたまま、この文章は進んでいくのかもしれないけれど、それって、少なくとも「評論」ではないんじゃないか?

とりあえず、そんなことを考えた。

 

#本日の英語の運動: All-in-One11セット目2ゲームやった。今晩もやる。そろそろCDを併用したい。

#ExEは2セット目6ゲーム終わり。87文型は2セット目を終わり、少し分量を増やして3セットを始めた。

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水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』 1:読み始めて

ようやく千代田区立図書館で「新潮」2008年9月号を借りることができた。ネットのあちこちで話題になっている標記エッセイを読み始めて、(全体をざっと眺めた後)1章をほぼ読み終えた。

端的には、漱石嫌いの自分には、ざっと見た限り、書き込まれている「語り手」の神経の細かそうな人物像には、あまり共感できていない。

作者は読み手にどんな人物を想定させようとしているのかと考えてみても、現時点ではどうもうまく理解できない。少なくとも、「語り手」として描かれている人は、本当に神経が繊細な人なのだろう。

 

「語り手」「書き込まれている」「描かれている」という言い方をしたのには、少し訳がある。

今回発表された字句をざっと見る限り、「語り手」が参加しているワークショップが、何年何月に開催されたのかが、少なくとも明記されていないので、作者としては、事実を材料とはしつつも、実録として書くつもりはない、ということなのかもしれないと思ったからだ。そもそも水村氏は、『私小説』の作者なのだし。

とすると、この「語り手」はどんな役割を演じることになるのだろうか?現時点で考えられるところを書いてみる。

日本語以外の世界があることに、「語り手」は早くから実生活の中で触れる機会があった。そうした経験の中で、「語り手」は日本語に特段の執着を持って、その後も海外と触れる機会を持ちながら、日本語での創作を続けてきた。

そして、そうした経歴ながら、外部との接触を負担に感じる彼女は、英語をバリバリ使って毎日を開拓しているような人とは、自ら距離を感じている。

つまり、「語り手」は、英語の世紀であることを肌で感じることができるとともに、日本語が亡びようとしていることに何か引っかかるものを感じる感受性を持ち合わせている人、ということになりそうだ。このエッセイの中の語り手として、不足のない人物像だろう。

この人物が、どんなことをどう語っているのか、今後はどんなことを語りそうかは、今回発表の分を全て読んでから週末に書いてみることにしたい。

 

さて、まだ作者が全てのカードを開けていない時点では、踏み込みすぎの敷衍は格好悪いだろうけれど、自分なりの現時点の考えを、書いてみる。

結論からいえば、自分は、英語が世界語となった事実を受け入れた上で、それを自分でも活用したいと考えている。

日本語の文学作品用語としての力がどうなったのかは、判断できる立場にない。

ただ、日本語がものを考え表現するのに不自由な言語とは思わないし、文学以外を含めれば日本人(日本語で考えている人)の作品はそれなりに世界から評価されているので、日本の芸術業界に将来がないとまでは考えていない。つまり、「日本語なんて使ってたら、それだけでだめだ」とは思わない。

日本語の問題というより、日本文学周辺業界の問題だろう。伝統商品に固執せず、新たなニーズに応じた新商品・新市場を考えてみてはどうだろう(「選択と集中」は「選択への固執」ではない)。

英語が世界語になったのは、世界語が必要になったからだろう。別にアメリカが世界を征服したからではない。ネット上を見てみると良く分かる。アメリカ批判の議論が、英語で行われている。

また、アメリカ自体が既に多様すぎる民族を受け入れているせいもあって、アメリカ人は変な英語にも比較的寛容で、逆に生粋のアメリカ語の方が、世界的には『変な英語』と感じられているようだ。

本作の今回発表されている部分には、『英語が母国語である人達は、英語が世界語である認識が不十分』といったくだりがあったけれど、アメリカ自体が、たとえば日本とは比べものにならないくらい、多民族・多文化社会、一種の『世界』なのだ。

そのことさえ身近に認識できていれば、アメリカ語がどんな人達に話されている言語であるかは、アメリカ人達にも十分認識できるのではないか?そんな疑問を感じた(人付き合いを負担に感じる「語り手」には、そうした状況を直に確認する機会はなかなかないのかもしれないけれど)。

世界語は必要から生まれたのだから、必要に応じて使えばよい。より多くの読者を求める者が、世界語で自らの作品を書くのも自然なことだろう。たとえば村上春樹の作品が、英語等での版でかなりの評価を得ているのだから、世界語では伝わらないニュアンスがあるとしても、伝わるものが十分にあるのも確かだろう。

従って、日本語が(より多数の読者を得るといった点で)相対的に不利になってきた点は、日本語の責任ではないかもしれない。引け目を感じることもなく、日本人も、世界語として英語を使えばいいのではないか?

 

とりあえず、そんなことを考えた。公表部分全てを読んだ上で、次は、作中のベネディクト・アンダーソンやプレイヤード派について為されている記述も併せて検討してみたい。

 

#本日の英語の運動: All-in-One10セット目3ゲーム目終わり。今晩も続ける。

#ExE、87文型とも1ゲームずつ前進。今晩もやるぞ。

#Podcastは、Bloomberg、NYT、CNN、Newspodを聴いた。

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