週末、ようやく『赤い風船』を見に行くことができた。銀座シネスイッチでの上映は朝10時からの1回だけ。あやうく逃しそうだった。
『白い馬』『赤い風船』の2本立て。この順序での上映は適切だと思う。
2つとも美しくて悲しい映画だけれど、昨年公開された『パンズ・ラビリンス』とは似ているようで、似ていない。近いといえば、92年(?)の『グラン・ブルー』のラストの方が近いと思う。
<「白い馬」「赤い風船」は、悲しい日常における夢>
どちらも、この世界では認められないものが認められる世界へと飛び出して行ってしまう話だけれど、『パンズ・ラビリンス』ではそうして飛び出して行った女の子が、実際の世界でどうなったのかがきちんと描かれているが、『白い馬』『赤い風船』ではそこが描かれていない、というか寓話のままになっている。
少年は生きたまま「どこかに」行ってしまう。その「どこか」は少年にも認識されていない。
また、『赤い風船』や『白い馬』では、この世の外へと主人公を誘うものが、日常の近いところにある。奇跡というより、珍しい日常、という感じ。
つまりは、『赤い風船』の語り手は、野暮なことを描かない洒脱な人なのかもしれないけれど、寓話の世界と日常の世界を近づけているようでいて、交わらせずに分けていると思う。
後述の『パンズ・ラビリンス』のような「人間の日常の中に共存する宗教・奇跡・異世界」という視点ではない。そこには、神様や奇跡なんてあってくれなくても、俺は夢を描きながら生きていってみせるぞ、と言いたげなフランス人らしい気概さえ感じられる。
<『パンス・ラビリンス』は、異世界を併せて生きていく日常>
『パンズ・ラビリンス』では、もう少し、この世ならざる世界の存在が素朴に信じられていて、映画を見る者とのそうした世界の共有さえ企図されている気がする。
『パンズ・ラビリンス』では、少女はそうした世界に、独りで試練を越えて入っていって、自分らしい選択をして、この世での生を捨てて、一人でそこへ去っていく。
言ってみれば、そうした世界の存在自体が、日常と(近くはないけれど)並行している。少女は、日常と、それとは大きく異なる異世界を、どちらも自分の「現実」として、最後まで一緒に生きていく。自分らしく生きる場所が、最後に1つになっただけだ。
全く異なる舞台設定ながら、2人の監督の訴える日常の悲しさは意外と近く、それをどう受け止めて生きていくかという選択は大きく異なっている感じだ。
<ラモリス監督の選択に賛成したい>
自分としては、一緒にこの世から飛び出していく、近しい相棒がいる、という「赤い風船」の設定に惹かれる。共に行く者がいてくれるのなら、現実から飛び出す決心もできるかもしれないと、『赤い風船』のラモリス監督が思っているのなら、賛成できる気がする。
そういう者(だと信じられる者)が近くにいてくれるという、少し現実的な奇跡の方を、彼が選びたいと思っていて、そういう者の存在があってもなくても、生きていくのが勇気だというのならば。
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